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ワークショップへのジレンマ

おたくとおすぎが杉並区にある私立高校で実践して得た知識・知恵を書いています。

【おたくのジレンマ#26】ジレンマがあるから進化、そして発展へ

このワークショップのジレンマを始めてから、早いもので、1年が経ちました。この期間で様々なテーマに触れ、また見つめ直したことで、新しい考え方、基本原則などを学ぶことができ、まず、一緒に記事を書いてきたおすぎに感謝するのと同時に自分を褒めたい。(笑)

 

今回の記事ではこの1年間で、学んだこと、気づいたことを振り返って行きたい。

 

僕はそこまで、ワークショップが好きでないということに気づいた。

世の中にはワークショップの場が好き、そこに集まる人と対話をすることでアイデア、新しい学び、そこで出会える喜びを求めたり、偶発的に発生する学びをデザインする、協働で何かを創り上げる活動を生み出す、またはイノベーティブな製品を作るために行われていることが多いです。

 

一方で、僕は世の中に新しい価値観、希少性、驚き、便利さ、社会の当たり前となるサービスを提供したいと心底強く思ったことはありません。まだ考えを整理できていないのですが、社会の中に存在する「あるべき論」を少しでも良い方向、または違う角度から見ることで根本から考えを問い直させてくれる機会を生み出していきたいという気持ちが強いみたいです。

 

実際に、僕が教育のフィールドで関わる理由に、「学校で教えられる教科より大事な何か」「学校では非公式な教科だけど社会では公式」みたいなものを伝えていきたい、考えさせていきたいなどが原点にあるので、コンテンツを提供するときはそのときに最適なツールを個人的には何時も選択するようにしています。

 

ワークショップが好きだからこのブログを書いているのではなく、根本的な考えをポジティブに変えられる変化を生み出すためのアイデアを思考するための思考の整理箱として、このブログを書いています。

 

今の自分は客観的?それとも主観的?いやいや、そもそも知らない。

何事も基本原理があるように、ワークショップ、カリキュラム作り、アイスブレイク、ファシリテーションなどには原理原則があります。

このブログでは様々な切り口、テーマに合わせてコトのジレンマについて書いてきましたが、書くたびに、知らない、忘れている、この原理原則はなんなのか?他にはないのか?ということを毎回考えさせられましたし、一つ一つの言葉の定義というのを落としこんでから書いています。

 

まだまだ知らないことがあるし、人間として、どのように生きていく、哲学的な観点も質の高い授業、問いなどを作成する上では触れていかなければならない領域、さらに深めていかなければならない知識領域を知れたことは良い学びです。

 

このブログを通して学んだこと、定着させた知識はハンパないです。しかし、そこで満足してはいけないので、このブログを進化させるために、現在おすぎと思考中です。新しく、このブログは生まれ変わります。


個人的には、今ある当たり前の価値を見直し、新しい価値を生み出す場を生み出していきたいと考えています。

僕らは新しいフェーズに入っていきますので、どうぞご期待下さいませ〜。(笑)

 

 

【おたくのジレンマ㉕】あなたはどうルールと向き合う?

何かを思考するとき、何が当たり前で、何がこれからも使われるのかというのをよく考えるが、海外生活が3年目を迎え、暗黙の当たり前、他者が他者に振る舞う基本的なコミュニケーションに関心を抱く機会が多い。

 

例えば、なぜ人は人に挨拶をしなくてはいけないのだろうか?挨拶をすることは礼儀なのか?ふとした日常に多くの疑問が湧く。それらはとても大切なことだと意識しているが、ただそれは当たり前だからと言う理由で大事だと思っていることが多いのではないか。その当たり前に目を向けることが今後の新しい可能性に出会えるのではないかと着目している。

 

「当たり前」というのは一言で言えば、「型」「規則」「習慣」「慣習」など様々な言葉をあげることができる。

さて、これらの言葉を見ていると最近一つの大きな問いが浮かんでくる。

 

それは「これらを壊すとどうなるのか?そのときどんなポジティブな化学反応が起きるのか」というような全く新しい世界が見えてくる。

 

私は学生時代に「教師」を目指すと決めたときに考え抜いて見えた未来は、地域と協力、自分にはないスキルを持つ人がゲストとして、授業をする、それがローテーションとして、回るような学校、授業をしたい。その前提は1対30から脱却であった。脱却することで効率化と多様性を取り入れ、授業を効果的に回せるのではないかと考えたのと、一人より、二人、三人がその場に関与することで、何倍もの学びが得られるのではないかという期待があった。結果的に、チームづくり講座という機会を得て、何人もの素晴らしいゲスト、パートナー、メンバーなどと魅力的な授業を展開できていることは本当に誇りに思っているし、これからも見ていきたい、そこに使っていた手法がワークショップだった。


当初はまだ黎明期で、馴染みのないものでしたが、現在は多くの場所で開催され、それを生業とする人も年々増えているし、資格としても発行されたりしている。

 

では現在、その当たり前になったワークショップにどう向き合えば良いのかというをここ数週間この記事を書く上で考え、たどり着いたのは、ルールチェンジャーというのが私の答えだ。

 

基本的にワークショップというのは次の手順で行われます。


1:チェックイン/挨拶

2:イントロダクション/導入

3:アイスブレイク/緊張を緩めたり、溶かしていく

4:メインワーク/本日の学習目標を達成する学びの場

5:リフレクション/本日の学びの振り返り

6:チェックアウト/今日の感想

 

私はあえて、この構造を逆にすることが一つ面白いのではないかと考えている。


1:チェックアウト:今日の学びの感想を考える

2:リフレクション:今日どんなことを学んでいるかを振り返る

3:メインワーク:実際に学んでみる

4:アイスブレイク:学びを消化する

5:イントロダクション:導入

6:チェックイン:今日はどんな気分?挨拶

 

あえて逆にすることで、仮説思考から始まり、現実と仮説のギャップを体感しながら、学ぶ場というのは、思考が深まるのではないか。イメージはとてもポジティブだが、想像すると感覚が気持ち悪い。この気持ち悪いを演出する技術がこれから求められるのではないかと勝手に思っている。

また、アイスブレイクで終われば、ピークエンド効果も最高潮に達する可能性が高いので、満足度の高い場になるのでないでしょうか。


ではなぜ違和感が大切なのか?

 

世間で話題になることは基本的に違和感や不満への改善であり、この違和感を小さな組織で解決できることで、多くの改善を生み出せる人材を育成することができるのではないかと考えている。そしてこれは年代間のギャップを解消する一つの手なのではないか。

 

問題は人が違和感に向き合い慣れていない。

 

多くの人は向き合い慣れていないため、耐性がない。ましてや違和感に向き合うのは非情にきつい。かなり過酷なもの。

ある一定の期間をすぎると晴れてこの問題を対処できた際には新しい自分や進化した自分、周囲が認めてくれたりする。そして表情が変わる。

 

あえて人とは違う道から普通に人とは違う道へ。

 

他の可能性を探る、そこに自信を持てることが、自信を与えられるようなルールチェンジャーとなれれば、一つ違った可能性を見出せる。

大きなことをやる必要はない。


個人の場合
・高校卒業後、ワーキングホリデーを使って世界のどこかで働いてみる

・20歳になったら受験勉強を開始する。

・大学卒業後、2年くらい放浪してみる。

・部活に入るのではなく、部活を創らせる


組織の場合
・1ヶ月の有給を年1でとらなければならない

・部活の顧問は生徒

・先生が生徒、生徒は先生
・教科書を逆から始める

 

一般常識から少しかけ離れていることを貫いてやってみることが一つの可能性を広げると思う。

まずは自分の中にある当たり前に目を向け、自分と他者を縛るルールや習慣に疑問をいだき、新しいルールを小さなところから始めることが一つの可能性なのではないでしょうか。法律に触れない範囲で、ミニマムルールチェンジャーもしくはパーソナルルールチェンジャーになるのはいかかでしょうか。(笑)

【おすぎのジレンマ㉕】ワークショップ以外の可能性…!?

さて、ここまで25回、「ワークショップへのジレンマ」ということでおたくとふたり、1ヶ月に2回のペースでつれづれなるままにおもいを綴ってきました。

 

そろそろどこかでこれまでの振り返りをしなくてはいけないかとは思いますが、その前にワークショップ以外の可能性を考えてみたいと思います。

 

改めてワークショップとは…!?

 

ワークショップ

英語では、仕事場、作業場、の意味。講師の話を参加者が一方的に聞くのではなく、参加者自身が討論に加わったり、体を使って体験したりするなど、参加体験型、双方向性のグループ学習。受け身型学習からの転換・脱皮として、日本でも1980年代後半以降、演劇、ダンス、美術などの芸術分野で盛んに行われるようになった。例えば、劇団青年団を主宰する劇作家で演出家の平田オリザは90年代以降、日本各地で、彼自身の演技メソッドを体験型で教えるワークショップを数多く行ってきた。ワークショップは、芸術分野以外にも、学校教育、企業研修、住民参加の街づくりなど、多彩な領域で行われている。
(扇田昭彦 演劇評論家 / 2007年)
ワークショップ
仕事場や研究集会といった意味から、美術や演劇などで表現者や鑑賞者といった従来の枠組みを超えた参加者全員による共同作業を指すようになった。日本の美術館では1970年代後半から、アーティストや学芸員(キュレーター)と一緒に子供たちが創作を体験する試みとして広がった。90年代に、美術館の教育普及活動の一環として盛んになり、さらに2002年度に実施された小中学校の「総合学習」(総合的な学習の時間)により、「図画工作」の時間数が切りつめられた代わりとして、積極的に地域の美術館で採用されつつある。「絵画教室」といった創作体験だけでなく、子供たちに展覧会を企画させるなど様々な試みが広がっている。しかし現状では、欧米のように普及学芸員やエデュケーターと呼ばれる専門学芸員を置く美術館は多くない。今後、美術館の地域社会への積極的なサービスの一環として発展させるためにも、十分な環境整備が求められている。
(山盛英司 朝日新聞記者 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」

(引用:ワークショップとは - コトバンク

 

さぁ、このようなワークショップですがもちろん万能なものではありません。

ここまでもジレンマとして綴ってきましたが、あくまでワークショップでの学びは日常生活に活かされることが大事で、ワークショップに参加することが目的になってはいけないなんていうことも綴ってきました。

では、そのような中ワークショップ以外の可能性を考えてみることにしましょう…。

 

と、いっても実はおすぎにはその答えが出ています。これはこの「ワークショップへのジレンマ」を綴る前から出ていたものでした。

では、そのおすぎの答えはいかなるものなのか!?

それは、「自然発生的な場での学び」&「教育機関の生まれ変わり」というものです。

ワークショップやセミナーなどはいわゆる人工的な学びの場、交流の場なのです。

そこで、自然発生的な場での学びが生まれるような伝統・文化を醸成することが必要かと思います。

そして、何よりその伝統・文化を醸成するために抜本的に「教育機関の生まれ変わり」が必要不可欠だと考えます。

 

つまり、ワークショップ以外の可能性とは、ワークショップのような人工的な場以外の自然発生的な学びの場を生み出す教育が必要不可欠なのだと思います。

そのために、今はワークショップやセミナーなどの人工的な場が機能しつつ、自然発生的な場が生まれ、そして教育機関が生まれ変わり、自然発生的な場が機能するようになるサイクルが生まれることが望ましいのだと。

 

ワークショップ以外の可能性を考えるためにも、ワークショップが機能することは前提になりつつも、両輪としてワークショップ以外の場を機能させていく、そしてその根本に教育の復権!があるとおすぎは一高校教員として考えています。

 

きっとおすぎはワークショップへのジレンマというよりも教育へのジレンマをワークショップを通じて綴ってきたのかなぁとここまで振り返って考えています。

 

さて、みなさんはいかがでしょうか?ワークショップ以外の可能性…どんな可能性がありますか?

【おたくのジレンマ㉔】先の見えない連携、だけど需要はある。

日本の教育を社会課題と考えて教育改革をしたい、教育を変えたいと言う言葉を聞くようになってから10年ほど経ちました。「学校と協働して今後何か社会に貢献できる施策を行っていきたい」と考える企業、NPO団体、地方自治体、教育委員会からの相談を受ける機会は年々増加しています。一方で、現場を知らない人に何ができるんだという批判の声もあります。

 

どんな支援をしたいかを聞くと大概が以下の5つが挙げられます。

・キャリア

・地域連携

・夢・将来

・ビジネススキル

・コミュニケーション

確かに上記の内容は現代の学校教育で必要とされるもの、もしくは生徒からニーズがあるものですし、そのような内容を学べる機会があることはとても重要です。

・継続性のない連携

コミュニケーション、ビジネスコンテストなどあらゆる機会が現在の若い世代にはあり、学校では学べないことを得られ、特別な達成感、満足感、思い出などを作れます。

ただ問題は授業を終えてしまったら、終わってしまうという関係。

これはよくあることですが、一度で良いからというのは無責任な感じがします。
学校という期間で何かするには実践した後にフォローを目的に足を一度で良いから運ぶことをお勧めします。そういう機会があるからこそ、授業内容の効果を肌で感じることができるし、お互いにやってよかったという感触が生まれ、継続的な連携が生まれやすくなります。

シナジーが生まれない
団体というのコラボレーションというの名の他力本願?
高い実績、実戦経験が豊富ということで、アドバイス、協力をいただけないかということで、ご相談の連絡をいただくことがあります。

相談の内容は、「高校生向けにキャリアやコミュニケーションスキル」を学ばせるような場を当団体としても今後行っていきたいと言う話から、一緒にご協力いただけませんか?と言う相談なのか依頼なのかわからない状況になります。(笑)


そんな中で、折をつけて、MTGを行い進めていくと
「これは難しい」「あそこの団体は・・・」やらとネガティブなことが発生し、うまくいかなくなる。というのが大人の事情。

連携をする1つの理由に「相乗効果が生まれる」「新しい問題に対してより早く対策を打て、未来に収益が生まれる」などを考えるのが前提なのですが、担当者と話をしていると、結構な確率で個人的な見解が多く、自分の所属組織に関することをあまり知らない、または何を生み出せるかを考えることができていない人が多いです。

 

今後「連携」はさらに需要が増えてきますので、より慎重になって考えなくてはならないテーマです。

連携をする上で個人的に重要なのは"ともに時間をかけて、目的・目標を達成できるか”かが鍵になってくるのではないでしょうか。

何を始めるにも最初はうまくいきません。時間をかけて少しでもステップアップすることができれば、3年、5年後には注目を受けたり、また違う価値を生み出せるようになり、社会から評価されます。

時間をかけて改善していけば、クラスという単位から学年、そして学校、そこから学校間、地域間というように広げていけます。小さな積み重ねをしていくことで、地域と学校、自治体が協働する共同体になると思います。


ワークショップという小さなきっかけを継続にしていくことで社会的なインパクトを生み出せるのではないでしょうか。

【おすぎのジレンマ㉔】大人の思惑だらけの連携(笑)

「連携」

互いに連絡をとり協力して物事を行うこと。

連絡を密に取り合って、一つの目的のために一緒に物事をすること。

 

この言葉には、このような意味があります。

学校においても地域連携、外部連携、内部での連携、教科間での連携などなど、連携という言葉がよく使われます。

個人的に、おすぎは「連携」することが大好きです!!

 

だって、間違いなくひとりでやるよりも、誰かと協力をして一緒にやることのほうが学ぶも多いし、結果にもつながるし…正直得るものは大きいなぁとこれまでの経験から実感しています。

ただ、問題はその目的と手段なんですよね。

 

まず、高校教員という立場にいるおすぎの視点から言わせてもらうと、やたら学校と連携したがる方々が多いなぁと感じています。

きっと学校という場が良くも悪くも閉鎖的で外と連携しているようでしてこなかったこともその理由のひとつかもしれませんが、それでも…多い(笑)

まぁ、ちょっとSNSで「連携しませんか?」的なたとえば一緒に授業をつくったり、授業をしていただいたり、講演を依頼するものを投稿したら、すぐに個別の連絡を何人もの方からいただきます。

もちろん、おすぎがそのようなネットワークを構築しているこということもあるかもしれませんが、それにしても多い(笑)

また、「ぜひ連携しましょう!」というお誘いが多いのも事実ですね。

 

ただ、そんな時おすぎはものすごく慎重になります。なぜって?

だって、これまで多くの素敵な連携とそうではない連携を見てきたからなんです。

その中で、やはり素敵な連携というのは、目的がきちんと連携する者同士で共有ができていて、同じ方向に向いている場合です。たとえば、そういう方々と授業を一緒につくった時なんかは、目の前の生徒にとってもそして連携し合った者同士も、とてもハッピーになれた記憶があります。

では、そうでなかった場合はどうなのか…むしろそうではない場合のほとんどが大人の思惑だらけの時なんです。

「学校という場で実績をつくりたい」

「教育現場とつながりをつくりたい」

「自分の研究のために実践をしてみたい」

など…まぁ、自分のことしか考えていない(笑)そして、そういう方々に限って、連携がうまくいかないと、教員のせいや生徒のせいにする…もうウンザリです。

 

そのようなわけで、連携をする場合、まず連携相手をきちんと見極めることが大事になってきます。それは、もちろんこちら学校側や教員側も見極められているという自覚を持ちながらですが。

 

そして、きちんとお互いが理解をしあって、目的を共有できれば、あとはそれに基づいた手段を実行していくこととなります。

ただ、ここでも気をつけたいことがあります。それはたとえ目的が共有された相手でも、立場が違えば良かれと思って考えた手段が全く異なることがしばしばあります。実は、学校と外部との連携などでは、よく起こる事象なんです。

そこで、目的が共有されてからは丁寧に手段を構築していくことが必要となります。

そのような過程を経てようやく本来の「連携」がスタートするんだと思います。

 

おそらくこれからの多様化した社会において、「連携」ということはよりニーズが増してくるスタイルだと思います。

そして、だからこそ大人の思惑も増し、「連携」という名のもと犠牲者になる立場の人も出てきてしまうのではないかなぁとおすぎは危惧しています。

 

だからこそ、原点に立ち返り…

 

「何のための“連携”なのか?」

 

を自分自身に問い、連携相手に問い、そのうえで連携を作り出していくことが必要不可欠なのではないでしょうか。

そして、そう考えてみるときっと連携はそう容易いものではないということが見えてきます。もちろん、これらはワークショップという場でも同じことが言えます。

 

さて、みなさんはどのように連携をしてゆきますか?

あなたの思惑で連携しますか?

目の前の人のために連携しますか?

それとも…!?