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ワークショップへのジレンマ

おたくとおすぎが杉並区にある私立高校で実践して得た知識・知恵を書いています。

【おすぎのジレンマ⑧ここまでのジレンマを振り返る~そもそも論~】

ワークショップへのジレンマを振り返るまえに、そもそも「ジレンマ」ってなんぞや?ってことを共有しないといけないですよね。

 

大辞林(第三版)』によれば…

ジレンマ【dilemma】〔ディレンマとも〕

自分の思い通りにしたい二つの事柄のうち、一方を思い通りにすると他の一方が必然的に不都合な結果になるという苦しい立場。板ばさみ。 「生活と研究の-に苦しむ」 「 -に陥る」
〘論〙 三段論法の一。二つの仮言的判断からなる大前提と、その判断を選言的に肯定もしくは否定する小前提から、結論を導き出すもの。例えば、「前に進めば虎と出会い、後ろに退けば狼と出会う」「前に進むか後ろに退くかしかない」「したがって虎と出会うか狼と出会うかであり、いずれにしても困った結果となる」の類。両刀論法。
 
だそうです(笑)
そんなわけで、ここまでのワークショップへのジレンマを振り返ってみると…正確にはジレンマというよりも、ワークショップへの思い、またワークショップでいわゆる常識となっていることへの問題提起だったような気がしています(笑)
 
ただ、言えることはワークショップという非日常の場面でできることが、ワークショップを終えて、翌日職場や学校ではできなくなってしまう、ワークショップのその場だけで満足してしまい、実生活に活かせていない、そういうジレンマからここまでワークショップへのジレンマを吐露してきました。
 
おそらく、そんなジレンマが出てきてしまう原因としては、ワークショップ自体をより良い場にしようとすればするほど、実生活と乖離していく…そんなことが起きているのではないでしょうか。
そうすると、今度は「ワークショップ」ってなんぞや?を共有しておかないといけないですよね。
 
『世界大百科事典』によれば・・・

ワークショップ(workshop)

もともと〈仕事場〉や〈作業場〉を意味する言葉だが,アメリカでは一般に,専門的な技術やアイデアを試験的に実施しながら検討を行う研究会やセミナーを指す言葉としても使われていた。ところがアメリカの演劇の世界では,1960年代ごろから新しい形態の演劇を創造する母体 としてのワークショップに大いに関心が持たれるようになり,そういったアメリカでの試みが注目をあびて,演劇の世界では広く世界的にこの呼名が使われるようになった。

 

だそうです(笑)

もちろん、ワークショップには色々な解釈がありますが、仕事場や作業場であればその場かぎりでも良いかもしれません。ただ、セミナーという面でいえば、やはり実生活に活かせるような学びの場でないといけないとも。

ここまでまとめてみると、きっと「ワークショップ」自体がさまざまな解釈があるため、人によってその捉え方も十人十色でそれによってジレンマが起きているかもしれないなぁと感じました。

では、ワークショップの定義をきちんと確立したほうが良い!?

そうとは思いません。きっと、これだけさまざまな人がさまざまな捉え方ができるワークショップというものだからこそ、無限大の可能性があるんだと思います。

そして、ワークショップへのジレンマ自体が、学びにもつながります。

つまり、ワークショップというのはジレンマが起きて当たり前!だからこそ、そのジレンマをどう素敵な学ぶにつなげ、できることなら実生活に活かしていくのか。

そうなのかなぁと思います。ただ、これもまたすぐに変わるかもしれません(笑)

だって、それがワークショップであり、ジレンマだと思いますから。

【おすぎのジレンマ⑦自己紹介って“絶対”にやらなくてはいけないですか?】

自己紹介、人生を歩めば歩むほど、どこでもどんな時でもやりますよね。

私は小・中・高時代の自己紹介が本当に大嫌いでした。

はじめてのクラス、はじめての授業、先生は「自己紹介をやりましょう」といって、そのままの机と椅子の配置のまま、列ごとに先生のほうを向いて名前と一言…

一体、誰に向かって自己紹介しているんだ!って、今ならその先生たちを糾弾したくなる気持ちでいっぱいです(笑)

 

さすがに大学に入り、顔を見合わせた状況での自己紹介が増えると、まだマシになってきましたが、それでもどうも自己紹介がいまだに好きにはなれないおすぎです。

また、ワークショップでは呼ばれたい名前でいることも多いですが、なぜか本名を言わないと変な空気になることも。私はよく呼ばれたい名前を「山田」(特に意味はないですが)にすることが多いですが、知っている人がいると、「なぜ山田なんですが、おすぎさん?」と言われる始末…おい!それでは呼ばれたい名前を使っている意味が無いじゃないかと突っ込みたくなる気持ちで一杯になります。

 

さて、そんな自己紹介って、ワークショップの場はもちろん、はじめての場などで“絶対”にやらなくてはいけないものなのか?改めて考えてみたいと思います。

 

私はただやらされるだけ、気づきも学びもない自己紹介であれば、やる必要がないと思っています。しかも、極度の緊張状況で自己紹介したところで、自分のことが伝わることもないし、それこそ他の方の自己紹介が頭に入ってこない(笑)

ただ、自己紹介ってやりたがりますよね。もちろん、最低限の安全・安心の場の確保という意味では、一緒に場をつくるメンバーのことを少しでも知る必要があると思います。ただ、それはそのメンバー自身が必要と思えば、相手を知り、自分を知ってもらえば良いのかなと。

特にワークショップにおいては、自発的に参加している方々が多いはずですから、むしろ自発的な自己紹介を促す空気さえあれば十分!

確かに学校現場では、自己紹介に対して自発的ではない生徒も少なくはないので、「自己紹介」というプログラムを設定する必要があるとは思いますが、逆に設定するのであれば机と椅子がそのままで誰に向かって自己紹介しているのかよくわからない無意味どころかマイナスにも働く自己紹介の場は即刻無くしてほしいと考えます。

普通に机を取り払って円にして、みんなの顔が見える形での自己紹介や4~6人程度のグループをつくり、そちらでの自己紹介など、少しでも工夫すれば意味のある自己紹介になります。

 

でも、ここまでつれづれなるままに書き連ねてきて、おすぎが感じることは、

「自己紹介が自然発生的に起きる雰囲気」

これが、日本社会には足りていないのかなぁと思います。

ワークショップが始まったら、オンのスイッチが入り頑張りますが、ワークショップがはじまる10分前の変な空気間…これって学校や職場でもふつうにありますよね。

なんか、声かけにくい雰囲気、そして声をかけさせない姿勢。

日本人って、私も含めて良くも悪くもシャイなんですよね。だからこそ、これからの日本の未来を見据えて、

「自己紹介が自然発生的に起きる雰囲気」

を文化として醸成させていけたらなぁと考えています。

そしたら、きっと自己紹介で嫌な思いをする人はいなくなるでしょうし、必要と思えば自己紹介をするし、そうでなければしない、自由な自己紹介が当たり前になってくると思います。

自己紹介…あなたはどんな自己を紹介しますか?

【おたくのジレンマ⑦ワークショップで自己紹介はする必要があるんですか?】

「グループで自己紹介をしましょう」....どんなワークショップに参加しても、ファシリテーター、参加者間での自己紹介をする機会はあります。自己紹介を行わないと相手との距離を縮めにくいというのは事実ですが...ただふとたまに考える時があります、「なぜ見も知らぬ人に自己紹介をしなくてはいけないのか」「ファシリテーターの自己紹介が長すぎて経歴自慢かよ」「知り合いに対して改め自己紹介しなくてはならないのか」という幾つか疑問やストレスを抱えます。

 

例えば

自己紹介の際に情報が少なすぎるケース、

  

  「名前と所属名/会社名だけを言う」

   例:「◯◯株式会社のおたくです」

 

少ない情報を伝えるだけであれば、聞き手は話し手の魅力を探すためにいろいろと聞き出さなくてはなりません。これって以外とストレスで、少ない情報であれば、自己紹介する必要があるのかなと考えしまいます。勉強会のスタイルによっては隣の席の人の名前を知らずに帰ることもありますが、満足して終えることもあります。

 

またその逆で多すぎたり、自己紹介が自己PRとなったり、長すぎたりすると、その人への印象がマイナスとなり、その先のワークへ憂鬱さを覚え、自己紹介が事故紹介となり、損した気分となります。

 

自己紹介のどの場面が適切なのか。 

どの場面で自己紹介をすれば、心地よくなるのか。最初に自己紹介をすることが適切なのかと考えてみるとそうではないかと思ってしまいます。理由はシンプルで他者の情報を知らなくても、なんだかんだアイスブレイク、ワークはできてしまいます。


終わった後は、この人、賢いな、面白いアイデア出すなとか、他者に興味を持つことが多いので、幾つか気になることが他者に抱くので、質問したくなるので、必ずしも最初に持ってくる必要はないのでしょうか。


個人的に試したいワークとしては自己紹介をワークの最後また休憩前後に持ってくることです。通常、自己紹介はメインワークの前やアイスブレイクで行うのはスタンダードであるものの、振り返りや休憩前後に持ってこれば、違う効果があるのではないかと最近考えています。何かを一緒に成し遂げた後に自己紹介をすることで、その他者への興味関心が上がるのではないかと考えています。そうすることで、このような結果が生まれるのではないでしょうか。

 
 ・名前を一度で覚えられる人の増加

 ・思い出・記憶の定着:何かをその人と一緒にしたか

 ・ポジティブな印象

 ・キャラクターの把握・理解

 ・その人への興味関心の上がる

 ・また会いたいという気持ちの醸成

 

幾つかポジティブな効果が出る可能性を想定できますが、一方で名前を知らないとワークを進行できない、名前を覚えることが先決と考えている人もいるので注意が必要です。

 

また他のアイデアとして、グラウンドルールで「名前や所属を明かさない」というものを作り、ワークを進めながら、グループのメンバーの名前をしれたり、するようなステップを作っても面白いのではないかと思います。

 

自己紹介は互いを知る上で非常に重要な役割となりますが、

 ・従来の名前を知る→お互いの特徴や性格を理解する

から、

 ・お互いの特徴や性格を理解し→名前を知る

 

 という流れを作っても良いのではないかと思ったりしました。

 

どうしても自己紹介はワークの事前にきますが、それは伝統・文化的な背景があるからだと思います。当たり前に少し変化を加えることができれば、ワークショップの運営、満足度、効果も変わってくるのではないでしょうか。

 

【おすぎのジレンマ⑥備品やグッズは誰のためのもの?】

プロジェクターにホワイトボード、名札にトーキングオブジェクトにお菓子や飲み物…

ワークショップを運営する時に、よく用意するものですよね。

 

私は正直、備品やグッズを取り揃えるタイプです。

もちろん、備品やグッズを取り揃えることが目的ではなく、ワークショップの目的を果たすために必要だと感じるからこそ、きちんと用意をします。

ただ、時々取り揃えすぎちゃったなぁとか、取り揃えたことで満足…またある意味場づくりの保険として用意してしまっていると感じるワークショップを体験することがあります。

 

最近感じることは、ワークショップという場が増えたことにより、間違いなく場の平均値は上がっているなぁと思います。変な言い方をすると、ハズレがない(笑)

もちろん、時々ハズレと感じる場もありますが、そういう場が本当に減ってきているなぁという印象を受けます。

 

一方で、ワークショップがひろがるにつれ、ワークショップがある意味金太郎飴のようにパッケージ化されてきている印象も受けます。

どんなワークショップに参加しても、ハズレもないからアタリもない…なんていうか物足りなさを感じています。

 

さて、おたくも綴っていましたが、いっそ備品やグッズを無くす…良いかもしれませんね。どうしても備品やグッズを取り揃えていると、無意識のうちにその場のあり方ではなくやり方に目線がいきがちになってしまいます。

やり方、つまり手法はパクリやすいですしね(笑)でも、本当に大事にしたいことはそのワークショップそのもののあり方ではないかなと思います。

なんというか現代社会を象徴しているというか、備品やグッズが溢れるにつれ、物事の本質が見えにくくなってしまっているのではないかなと。

ただ、はじめて場をつくる人や参加してくださる方々のことを考えると、備品やグッズをしっかりと取り揃えて、「安全・安心の場」の確保や「満足度」を上げたいという主催者としての気持ちはわかります。

でも、だからこそ物事の本質に目を向け、備品やグッズに頼らない場を設計してみるのも良いのではないでしょうか?

もちろん、ある程度チャレンジングなことです。ただ、そのような場をつくるのであれば、きちんと参加者にも事前に伝えるなどして、物事の本質を見極められるようなワークショップをデザインしても良いかもしれません。

これはある意味、自戒の意味も込めてです。

 

これだけ良い意味でワークショップが「ふつう」になってきているからこそ、原点回帰をして、ワークショップを問い直すことが必要かもしれませんね。

 

【おたくのジレンマ⑥ワークショップにホワイトボードや付箋は必要不可欠なのか】

ファシリテーターや企画者は参加者のアイデアをまとめるため、まとめたものを参加者に共有しやすくするために幾つか備品を用意します。

例えば、付箋、模造紙、音楽、テーブル、椅子、ホワイドボード、えんたくんなどがありますが、これらの道具は正直必要なのでしょうか。

正直、必要不可欠でないと思います。もちろん、ワークショップの目的にもよりますが。

 

会場に訪れると、テーブルの上には模造紙とカラフルなマッキー(黄色以外)が置いてありますが、それを見た瞬間に、「またグループでブレストをしなくてはならないのか」、と考えてしまうことがあります。もちろん、道具があることで、提示されたワークのお題を解決するためのアイデアを出しやすくなったり、グループ内のディスカッションをまとめやすくできるのは事実です。

 

その場に具体的な目標があれば、ファシリテーターがその目標を達成するために、用意された台本を元にその場を推進し、その場に集まった学習者をナビゲートしたり、コー

チングをして導いてくれます。

 

 

 

しかし、それらを頼りにしていると、潜在的に身につけれるスキルの習得を機械的に損失させてしまっているのではないでしょうか。

 

もしワークショップの場に用意されたものが、「人と場所のみ」であれば、そこでは新しく学ベるものがあるのではないでしょうか。僕は以前、ファシリテーターとして、「暗黙」「沈黙」を合わせたワークショップを実施したことがあります、これはスクリーンに映された光と文字のみで、参加者に説明し、ワークを実施していただきました。

 

僕の立場から見た参加者の様子は、「危機感」「好奇心」が混じり合いながら、「自分をどう表現すれば良いのか」「どう自分が行動すれば良いのか」ということを短い時間で必死に表現する姿が見えました。そしてこの「暗黙」「沈黙」を解いた後の参加者の声には「疲れた」「普段使ったことがないスキルを使った」という声をいただきました。実際、僕も物凄くしんどかったです。人の行動を制御することの辛さ、自分がスライド記載した文章が伝わっているのかと不安でいっぱいで、冷や汗、脇汗がすごかったです。それ以上に空間の熱気が凄く、充実した時間を得られたのは間違えないです。

 

そこから考えられることは、具体的な目標があるワークショップは身につけれられるスキルが明確ですが、一方で潜在的なスキルを引き出すことはできないのだとうことです。模造紙や付箋を使うことは慣れている人からすれば、スキル開発は進みません。

今ではワークショップはマニュアル化されてしまい、それに従えばある程度は価値がある時間を誰も作れるようになってきましたが、そのマニュアルが進化を止めている可能性もあるのではないでしょうか。

 

ワークショップには時間を割いて来ていただいているので、標準的な価値と同時に希少価値を少しで提供できるようになることが重要なのでないでしょうか。

 

ワークショップにおける一般的な道具はブレストを促進、アイデアをまとめやすくするための道具でしかないと思います。それは企画者、ファシリテーターのエゴでもあります。「こうした方がうまくいく」という考えはとても重要ですが、自身のワークショップに新しいスパイスを入れるための実験は必要だと思います。

 

一度身についたこの感覚はそう簡単には落ちませんが、自分の内に秘めた悩み、潜在的なスキルを見出せしてあげられるような場は参加者に新しい価値を提供できると思います。

ワークショップでの目標はどうしてもスキルになりがちですが、マインドの開発というものを設定して、何かを実践するのはありなのではないでしょうか。

もしかしたら、スキルとマインド、二つの目標を設定することが、良いワークショップを生む可能性が今後あるのではないかと思います。

 

大胆にいつも使用している道具をなくす発想は一つの考えとして重要なのではないかと思います。

 

sugitakuworkshop.hatenablog.com

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